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2016年09月27日

当日は連休の中日

しかも「高校生無料デー」という条件も手伝ってか、入場規制されるほどの盛況ぶりである。


初期の作品に、まったくダリらしさがないのに驚いた。
素人の、日曜画家程度の構図、画力のものもある。

ゴッホも初期はまったく作風が違っていた。
ピカソは14歳の頃に、子どもと思えないほどの、才気の萌芽が感じられる絵を描いていた。
画風が変化するのは珍しくない――というより普通は変遷を辿りゆくものだから、驚く話ではないのだが『常識的な』絵がやや意外だった。こちらは、ポスト印象派の影響を受けた筆致で、後年のダリの作風を予想させるものではない。


それ以外にも、点描を用いたスーラ風のものや、ピカソへの崇敬を思わせる絵など、試行錯誤し昇華していった痕跡がみとめられる。


会場が混雑しているのは、入場者が多いから、というだけではない。

ダリの絵は、メッセージ性が高く、謎が多く、主題が非常に複合的である。

芸術作品には「一目見て理解できるもの」「全く理解できないもの(或いは観覧者が理解を放棄したくなるもの)」がある。
後者は――例えば、キャンバスをカッターで引き裂いただけのものなど(私見である)。

ダリの絵は、そのどちらでもない。
後年の写実性の高い作風は、描きこまれているひとつひとつは理解しうるものであるのに、総合的に把握することは難しい。
この絵は、裸婦にも見えるが馬にも獅子にも見える物体が描きこまれている。
観覧者たちは、絵の前で一瞬戸惑いをおぼえる。

そこで説明文を読み、またその視線を絵に食い込ませ、ようやくひとつの解を得る。
それでも、彼のメッセージを完璧に理解してはいない。
もっと深淵なものが潜在する。

ひとつひとつの絵で、皆、逡巡をおぼえるため、どうしても列の進みは遅々となるのだ。  


Posted by laksjidhyhuan at 13:14Comments(0)