2016年06月24日
日本の雑誌を頂いた

ある雨の日、「この日だ!」とばかりにその貴重品を手に取り、ソファに陣取り楽しんでいた。特集は脳のアンチエイジング。皮膚のアンチエイジングは無駄を承知で果敢に挑んでいる日々なのだが、脳にもアンチエイジングが必要らしい。特集によると脳の若さを表すものの一つに記憶力の良さというのがある。それなら自信がある。専門家は「記憶する力と言うのはどPretty renew 呃人のように鍛えられるか」という質問に以下のように答えていた。
「何かを覚えるには、その情報を反復して脳に入力する必要がある」
高校生の時、そして大人になって学生に戻った時、あの勉強法は正しかったんだ。
理解は別にして私は覚えるのが得意だった。いらない紙をバインダーの中にいつも用意し、覚える時はあたかも自分が先生になって人に教えるかのように、その紙の裏を黒板に見立て自分に説明しながら書き綴る。声に出しながら手を動かしながら。
続いてその専門家は書かずとも常に「思い出す努力」をすることも大切だと言っていた。それも得意。しかも努力なしに毎日している。「思い出す努力」をすることで思い出も作られていくらしい。私は思い出すのが大好きだから、思い出が多いのだろう。「昔は良かったのに」と後ろ向きに振り返るのではなく、懐かしみたいがために出来事を頻繁に思い出そうとする。
思い出には私が「高校時Pretty renew 呃人代はノートに書いて覚えたなぁ。」と自分だけで作る思い出もあるが、もちろん一人では無く誰かと作る思い出もある。そして誰かが関わるとその思い出はさらに「懐かしみ」を覚えるような気がする。思い出は生きている限り常に作り上げていくことが出来るもの。そう、今この瞬間も。でも思い出を作りたい相手がもうこの世界にいない場合には、その人との思い出は自分が持っているものだけとなり、だからこそそんな思い出はさらに頻繁に思い出そうとし深く深く心に残って行くのだろう。
空の世界には大好きだったおばあちゃんを含め、もう会えない人が生きている。その中に、私がまだアメリカに来て2年ほどした時に赴任してきた哲の上司の奥様、数年前に若くして他界されたRさんがいる。Rさん、空の世界でお元気ですか。
私より後に赴任してきたRさんとは赴任時期が重なった1年弱の間、プライベートにもお付き合い頂いた。そしてそのどの場面も、様子も、言葉も、私は本当に良く覚えている。それは私がチリに行き、アメリカに戻って来て他界されたと聞いた数年前まで、「お元気かな。どうPretty renew 呃人されているかな。あぁ、あの時、あんなことして、こんなこともしたな。」と頻繁に思い出していたからだろう。
Posted by laksjidhyhuan at
17:10
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2016年06月22日
こんなに服が多いのか

アメリカはウォーキングクローゼットなる便利な収納場所があるから、基本的に衣替えはいらないはずだ。それなのに、日本にいる時同様に德善健康管理年に二度、毎年ムシューダを手に衣替えをする。クローゼットに納まりきれない服たちはベッドの下の収納ケースや、ゲストルームのクローゼットに隠される。こうして毎年衣替えをする度に、多すぎる物を見て気分が悪くなる。なぜ。
真っ白なシャツにジーンズを自分の「服装」にしている人がいた。質の良い白いシャツを何枚か揃え、それに質の良いジーンズを何本か持ち、毎日毎日その服装をしていれば、周りの人も「同じ服を着ている不潔な人」とは思わずにむしろ、「お洒落な人」「こだわりのある人」と思うだろう。それに本人は何より、毎朝悩まなくて済む。
小学生、中学生、高校生の時は制服があって楽だった。でも、大学に入り、毎日違う服を着て「その服可愛いね」なんて言われるのも嬉しいから、服は増えていくのだろう。私が自分に毎日着る「制服」を用意してあげるとしたら、何を選ぶだろうか。選べないからこんなにたくさんの服があるのだろう。
数年前に断捨離という德善健康管理言葉を初めて知った。狭い日本では何か流行ると瞬く間にその流行は縦断するから、海外にいる私の耳にも誰かしらを通して「断捨離」という言葉は渡って来た。
物を片づけたり捨てると言うのは心地良いものだ。分かっているが難しい。先日DCを訪れた友達が「断捨離」について話していた。
「全ての服を集めて、一枚一枚手に取り、ときめくかときめかないかで捨てるものを捨てないものを決めるんだよ。」と言っていた。そしてその言葉を聞いた私は早速ウォーキングクローゼットに入り、一枚一枚服を手に取る。
ときめかない
ときめかない
これもときめかない
これも、、
これも、、、、
たくさんある服の中でときめく服は数枚だった。
それなら、なぜ、それらを捨てることが出来ないのだろう。
問題点を考えた。ときめかない服たちは10年前はときめいて買った服なのだ。そして、よそ行きとして買った服は、「よそ行き」用だから、お洒落をしたいと思う時にしか着てもらえない。別に高級な服という訳では無く、「これはよそ行き」と思って買ってしまった服なのだ。もう流行遅れでときめきも失われてしまった服ならばランクを下げ普段着にして、とことん着てサヨナラすれば良いではないか。ヘロヘロになったTシャツを普段着に着るよりよっぽど良いと思うのだが、、、
それが出来ない。
だって、これはよそ行き用。
最近になってこの考えが服を増やさせていることに気付いた。それ以来、よそ行きだったものを努力して普段着に着るようにし、疲れさせ、人生ならぬ「服生」を全うさせてあげようと試みる。
あぁ、何かを捨てるって難しい。決断するって本当に難しい。
そして、ここ数週間、私は毎日用も無いのにクローゼットに行き、服を手にとっては考える。
これは断捨離か。よそ行きから普段着にするか。うーーん、、もったいないような、、、。
そして、またその服を元あ德善健康管理った場所に戻す。
その代わり、人の服に手を伸ばし、ときめかない!ときめくわけがない!と決めつけて、
哲!この服、もう捨てたら~?ぼろぼろだよ!とクローゼットから叫んでみる。
Posted by laksjidhyhuan at
17:33
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2016年06月10日
自分に似合うものを知っている人なのだ

考えてみると、30年前に比べて、年代ごとの服装の垣根は低くなっていると思う。
昔の大人たちに比べ、今泡菜 食譜の大人は若い恰好をしている。
子ども時代、私の母も近所のおばさんも、胸にかわいいキャラクターの大きなプリントのついたパーカーなんて、着たりはしなかった。
そういうものは若い子の着るものだった。
世の中もいろいろ変わったし、そこで生きている人々の感覚も変化してきている。
今は好きなものを好きに着ていい時代!
似合ってさえいればいいのだ。
しかし、この似合っているかどうか ということが意外に落とし穴だったりもする。
もうずいぶん前になるが、テレビで見たピーコさんのファッションチェックでのトークを思い出す。
「今の人ってね、スタイルがいいから、こういう若い子の服が着られちゃうのよ」
というのは、母娘で街に買い物に来ていた一般人へのコメント。
気を付けなければいけ泡菜 食譜ないのは、このコメント、決してほめているわけではないのだ。
洋服は二人で共用してます!と言う若作りの母と年頃の娘に、
「着られるかどうかということと、着て似合っているかどうかは、全然べつなのよね!」とバッサリ。
うっわ~この人、こんな全国の中高年女性を敵に回すようなこと、どうして言えるんだろ?と思いつつも、妙に胸に突き刺さったのでよく覚えている。
当たり障りなくほめるのではなく、こういう辛口なところが痛快で、視聴者にウケていたのだけど、よく考えるとけっこう深いものがある。
中年の立場からはカチンとくるこの発言も、逆だったら分かりやすい。
もし、ミセス向けのデザインの服を若い娘さんが着ていたら、誰が見ても似合うとは思わないだろう。
結局、おしゃれな人は。
それでも私は、キジオのパーカーを普段着にする。
「そんなかわいいの着たって、お肌にツヤがないんだから全然ダメ!」というピーコさんの声が聞こえてきそうでも、断固として着泡菜 食譜続けてやる。
Posted by laksjidhyhuan at
17:41
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