2016年06月22日
こんなに服が多いのか

アメリカはウォーキングクローゼットなる便利な収納場所があるから、基本的に衣替えはいらないはずだ。それなのに、日本にいる時同様に德善健康管理年に二度、毎年ムシューダを手に衣替えをする。クローゼットに納まりきれない服たちはベッドの下の収納ケースや、ゲストルームのクローゼットに隠される。こうして毎年衣替えをする度に、多すぎる物を見て気分が悪くなる。なぜ。
真っ白なシャツにジーンズを自分の「服装」にしている人がいた。質の良い白いシャツを何枚か揃え、それに質の良いジーンズを何本か持ち、毎日毎日その服装をしていれば、周りの人も「同じ服を着ている不潔な人」とは思わずにむしろ、「お洒落な人」「こだわりのある人」と思うだろう。それに本人は何より、毎朝悩まなくて済む。
小学生、中学生、高校生の時は制服があって楽だった。でも、大学に入り、毎日違う服を着て「その服可愛いね」なんて言われるのも嬉しいから、服は増えていくのだろう。私が自分に毎日着る「制服」を用意してあげるとしたら、何を選ぶだろうか。選べないからこんなにたくさんの服があるのだろう。
数年前に断捨離という德善健康管理言葉を初めて知った。狭い日本では何か流行ると瞬く間にその流行は縦断するから、海外にいる私の耳にも誰かしらを通して「断捨離」という言葉は渡って来た。
物を片づけたり捨てると言うのは心地良いものだ。分かっているが難しい。先日DCを訪れた友達が「断捨離」について話していた。
「全ての服を集めて、一枚一枚手に取り、ときめくかときめかないかで捨てるものを捨てないものを決めるんだよ。」と言っていた。そしてその言葉を聞いた私は早速ウォーキングクローゼットに入り、一枚一枚服を手に取る。
ときめかない
ときめかない
これもときめかない
これも、、
これも、、、、
たくさんある服の中でときめく服は数枚だった。
それなら、なぜ、それらを捨てることが出来ないのだろう。
問題点を考えた。ときめかない服たちは10年前はときめいて買った服なのだ。そして、よそ行きとして買った服は、「よそ行き」用だから、お洒落をしたいと思う時にしか着てもらえない。別に高級な服という訳では無く、「これはよそ行き」と思って買ってしまった服なのだ。もう流行遅れでときめきも失われてしまった服ならばランクを下げ普段着にして、とことん着てサヨナラすれば良いではないか。ヘロヘロになったTシャツを普段着に着るよりよっぽど良いと思うのだが、、、
それが出来ない。
だって、これはよそ行き用。
最近になってこの考えが服を増やさせていることに気付いた。それ以来、よそ行きだったものを努力して普段着に着るようにし、疲れさせ、人生ならぬ「服生」を全うさせてあげようと試みる。
あぁ、何かを捨てるって難しい。決断するって本当に難しい。
そして、ここ数週間、私は毎日用も無いのにクローゼットに行き、服を手にとっては考える。
これは断捨離か。よそ行きから普段着にするか。うーーん、、もったいないような、、、。
そして、またその服を元あ德善健康管理った場所に戻す。
その代わり、人の服に手を伸ばし、ときめかない!ときめくわけがない!と決めつけて、
哲!この服、もう捨てたら~?ぼろぼろだよ!とクローゼットから叫んでみる。
Posted by laksjidhyhuan at 17:33│Comments(0)